翻訳会社というのはどのくらいの数があるのだろうか。日本だけでもかなりの数があるのだろうか。それとも意外と少ないものなのか。翻訳というのは必要とされる仕事でもあると思うし、なくては困るという人もいるだろう。かといって翻訳会社というのがどこにあるかなんていうのもわからない。翻訳会社のメジャーな会社というのもわからない。日本だけで実際どのくらいあるのだろうか。
海外に商品を輸出する場合には、使用時のマニュアルを現地の言葉に翻訳する必要があります。そこで翻訳会社に依頼して、輸出先向けのマニュアルを作成する場合もあるのです。特に電子機器や各種機械類の場合は、特殊な専門用語が数多く出てくるために、翻訳会社の技術系の専門用語に詳しいスタッフによる翻訳が求められるのです。
【転機】
日本弁護士連合会(日弁連)会長の宇都宮健児さん(64)は駆け出しのころ、顧客を開拓できずに法律事務所を2度もクビになりました。唯一受け持ったのは、当時他の弁護士は誰も手を出さなかった多重債務者たち。しかし、この出会いが運命を大きく変えて…。(村島有紀)
■独立できず…の日々
司法修習を一緒に受けた同期たちが、次々と自分の事務所を開いていく。弁護士はイソ弁(居候の雇われ弁護士)時代を経て3〜5年で独立していくのが普通だった。でも、自分は…。
東大法学部に在学中、司法試験に一発合格。貧しい実家を助けるために中退し、24歳の若さで弁護士になったエリートは出だしからつまずいた。独立には中小企業の経営者と懇意になり、顧問弁護料を確保する“営業”が求められる。しかし、人付き合いが苦手な青年はどうしても自分の売り込みができないのだ。
結局、イソ弁時代は12年にもわたった。真っ白なスケジュール帳を脇に置き、喫茶店で時間をつぶすことも。「向いていないのでは」と悩む日々が続いた。
1つ目の事務所は8年目でクビに。弁護士会の斡旋(あっせん)で何とか次の事務所に入ることができたが、状況はほとんど同じだった。
ただ、少しだけ変化があった。初めて名指しで依頼が舞い込んだのだ。弁護士会から紹介された多重債務者だった。「暇そうに見えたのでは(笑)。依頼者がいるだけでありがたかったので喜んで引き受けた」
■脅しに屈せず
昭和50年代初頭は現在と異なり、出資法の上限金利が年100%を超え、業者の登録制や取り立て規制もない。消費者金融(サラ金)業者の「あほ、ばか、死ね、ぶっ殺すぞ」という脅迫めいた取り立てが横行した。しかし、債務整理の方法が確立しておらず、依頼者から費用を受け取れる保証もないため引き受ける弁護士は珍しかった。
やり方が分からないため、依頼者と一緒に罵声を浴びせられながら業者を回った。業者が暴力団風の男を連れて乗り込んできたことも。「ドス(刃物)をちらつかせながら手を引けって。でも、ここでなめられたら負けだと」。どんな嫌がらせにも屈しなかった。
このため、自殺や夜逃げ寸前まで追いつめられた人の依頼が増え、いつしか休む間もないほどに。仕事は正直きつかったが、依頼者からは「死なずにすんだ」「家族そろって静かな正月を迎えられた」と感謝の言葉が寄せられる。「自分が盾になることで命が救える」。そう思うと、自然と活力がわいてきた。
「多重債務者の借金はほとんどが生活のためのもの。大分県の開拓農家で貧しかった両親の顔と、生活の苦労が染みついた依頼者の顔が重なり、なんとしても助けたいと思った」
そして、あるとき有効な債務整理の方法に気づく。「利息制限法を活用すれば…」。それからは150万円の借金を数万円に減額させることに成功。裁判でも次々と勝利を収めた。
■社会的に認知され
仕事は軌道に乗り始めたが、またも事務所からはクビを宣告される。「(みすぼらしい)多重債務者が集まっては体裁が悪い」が理由だった。
「全人格を否定されるような屈辱だった」が、落ち込んでいるひまはない。多重債務に苦しむ人のためには、何とかしなければ。独立しか選択はなかった。
昭和58年、東京・銀座に事務所を設立。すでに36歳になっていた。顧問先の会社が全くない中、ビル3階にあるわずか8坪の部屋でのスタートだった。
しかし、追い風が吹く。同じ年に貸金業規制法(現在の貸金業法)が成立、施行され、「サラ金地獄からの脱出法」という初の著書を出版したことで依頼者がさらに増加。多重債務問題の専門家と認知され、社会的反響の大きな事件の被害者弁護を次々と引き受けた。そして、法の不備と業者の悪辣(あくらつ)さをメディアを通じて訴えることで「借り手責任」と考えがちな社会の見方をも変え、現代に続く消費者保護の流れを作っていった。
常に心の底に流れるのは、貧しい人や弱い人の味方でいたいという思いだ。「イソ弁時代の挫折がなかったら、他の弁護士と同様に要領よく独立していたら、今の自分はなかった」
もし、他の弁護士が手を出さなかった多重債務問題を、「自分にもできない」と断っていたら…。誰もが敬遠したがることの中から、自分の“適職”が見つかるのだから、人生はおもしろい。
そして、こう思うのだという。「人間というのは、他人のためにがんばれる生き物だ」と。
−−日弁連会長になって変わったことは
「貧困問題などの活動を弁護士会全体として取り組むことができる。欧米諸国では民事法律扶助は低所得者に対しては原則給付制だが、日本では原則償還制。法律扶助の予算を増やし、貧しい人が法的トラブルを抱えたときに気軽に弁護士を頼める状況にしたい」
−−司法制度改革について
「急激に法曹人口を増やす政策がとられてきたが、弁護士の数の増え方は抑制すべきだ。一方、弁護士に比べて裁判官や検察官の数が少ないことは問題。市民に身近な司法とするために裁判官や検事の数も増やす必要がある」
−−司法修習期間中の給費が1年に限り延長された
「給費制がなくなると私のような経済的に苦しい環境にいた者は弁護士になれない。裕福な人しか弁護士や検事、裁判官になれないなら社会的経済的弱者に寄り添い社会正義を実現する司法が変質する恐れがあると思う」
〈うつのみや・けんじ〉昭和21年、愛媛県生まれ。44年、東京大学法学部を中退し、司法研修所入所(23期)。46年、東京弁護士会に登録。消費者金融、多重債務問題の専門家となる。その後、豊田商事事件破産管財人、地下鉄サリン事件被害対策弁護団団長、オウム真理教犯罪被害者支援機構理事長など数々の事件を引き受ける。「反貧困ネットワーク」代表も務める。法曹人口の増員幅を争点に、史上初の再投票となった会長選を制し昨年4月から日本弁護士連合会会長。
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